【プロフィール】人生28年間アウトプットをしてこなかった女の告白。

わああああああああ!

みてくださってありがとうございます(*'ω'*)

 

やーにゃんと申します。宜しくお願いします<(_ _)>

 

実はわたくし1年前ぐらいからずっとしてみたかったんです。「ブログ」書くことを。

 

なんで今日1年越しの夢をかなえているのだろう・・・自分で自分をほめながら今キーボードを打っております。行動に移すことってほんと労力いりませんか・・・・・?

 

ということで、最近、ブラックコーヒーを飲めるようになった28歳女でございます。

すいません、なんか今ふと思ったのですが、自分がこうなってみたいと思うことって本当にかなえられると思った一つの瞬間でした。(ブラックコーヒーを飲めた話です)

 

人生自分が願った事やそうなりたい!と思ったことって不思議と「現実になった!!」てびっくりしたことがめっちゃくちゃあるなぁ。そのエピソードも踏まえ、今からプロフィールで私の生い立ちについて、恐れ多いですが紹介させて下さい_(._.)_

 

ちなみにこうやって、自分感情を文字で世界に発信することは初なので、お手やわらかにご参照くださいませ。

 

 

 

 

【0歳~5歳の記憶】

私は大阪府のとある田舎で生れ落ちました。母親は私を36歳という少し高齢出産で産んでくれました。母は私を出産する時、出血多量になり一度三途の川が見えたといっていました(笑)笑いごとじゃないけど、本当に出産は命がけだと思いました。父親は38歳でした。母と父は今となればとても仲が良かったと思います。

 

母は少し心臓が弱く、よく病院に行ってた記憶があります。家で倒れてしまい、救急車に運ばれていった記憶もあります。とても怖かったなあ。小さいながら母が死ぬことを考えてめっちゃ泣いていました。また、母は精神的にも少し脆いところがありました。パニック障害があり、子育てとの両立はとても大変だったと思います。私は3歳からピアノを習っていたのですが、母の精神状態が悪化したのと同時に、5歳ぐらいでピアノをやめることになりました。でも辞めたかったからうれしかったです。

私にはとても愛をたくさんくれました。あまり怒らない母親で、心優しくて大好きです。

 

私には3つ上に兄もいるのですが、母は女の子がずーーーっと欲しかったみたいで私が待望の女の子で、小さい頃は常にスカートで髪の毛のリボンをつけてくれていました(笑)

でも私は、小さいながら女の子っぽい服装が嫌だ、スカートが嫌い、リボンもすぐとって!と母に歯向かっていましたね。

 

父にはとても甘々で育てられたと思います。

よくチューをしてきたり、ピーヒョロヒョロ(父が四つん這いになり私が飛行機みたいになるやつ)をしたり、よく身体を張ってあそんんでくれていました。

 

ただ、父の父(私のおじいちゃん)はとっても厳しい人でした。戦争を経験してた人だったので、孫の私に対しても常に大声で説教していました。私はいつも田舎に帰るときじっちゃんに怯えて隠れていましたw

 

兄との記憶はと言うと、あまり思い出せないんですね。。。小さいときの写真を見てたら仲良くしていたようですw

 

そんな感じの環境で保育園、幼稚園に通っていました。

 

私は幼少期、とても寂しがりやでした。そしてとても暗い子でした。保育園で母親と離れるとき心の底から悲しくて泣いていました。あと、幼稚園のお昼寝の時間がとても憂鬱でした。安心するところでしか寝れない子です。今でもです(笑)

 

初恋も4歳の時、幼稚園の年中の時でした。梅〇亮太くん。もうフルネームまで全部覚えてる(*ノωノ)顔と髪型がドタイプやったなぁぁぁぁ~~~~(〃▽〃)いまどこで何しているのかなどまったく知る由もありません。。。

 

ちょっと長々と書きすぎましたね(笑)

6歳からはもう少しコンパクトにまとめて書きたいと思います!

 

 

 

【6歳~12歳 小学校の記憶】

小学校に入学して、幼馴染のあっちゃんとゆかちと毎日一緒に登校していましたね。

入学式であっちゃんだけクラスが違うくて、寂しかったのを覚えています。

そしてあっちゃんとは、その後中学3年生まで同じクラスになる事はありませんでした・・・・悲

あっちゃんは色白ですごく可愛い女の子でした。ゆかちも仲良しではありましたが小学校の時は、あっちゃんとニコイチってかんじでした(笑)

 

小学校低学年の記憶・・・今思い出そうとしてるのに本当に何も思い出せないわ。

小学校高学年の4年生から部活が始まるんですが、私は音楽部に入りました。そこで音楽や楽器に触れてとても部活が大好きでした。あと4年生からすごくクラスも楽しくて、学校に行くことが楽しかったのを覚えています。

 

5・6年生でも音楽部に入りました。変わらずめちゃくちゃ楽しかったです。昼ごはんを食べたら仲のいい音楽部メンバーで音楽室に行って秘密で木琴とかを演奏していましたwあとクラスメンバーも、とっても楽しくて毎日腹抱えるほど爆笑していました。ほんといいですよね、小学校の時ってなにも考えず、毎日がホント心から楽しい!!って感じでしたね。。。ちなみに5年生くらいから私の性格は変わってきて、暗かった性格がとてもお調子者のような性格になりました(笑)めっちゃ明るくなり、それを自分でも感じていたし、明るい子たちと一緒にいることでやっぱり周囲もみんな明るい子たちばかりになりました(嬉)

 

ですが私にはこの時ひとつ悩みがありました。

 

男子と話せない、なぜか男子を敵と思ってしまっている自分がいました。

 

だから小学校の時、周りの友達は皆男子とおしゃべりしているけど、私が苦手オーラを小学生ながらに出しているせいか、男子からも私に話をしてくることはありませんでした。。。( ノД`)シクシク…そしてこの事がのちのあの事件になるとは思ってもいませんでした。

 

 

 

【13歳~15歳 中学生の記憶】

中学に入り、迷いなく吹奏楽部に入部しました。そこに一人の可愛い女の子も入部していました。名前はワカちゃんです。実は小学校の時からワカの事をずっと可愛いなぁ♡と思っていていつか絶対仲良くなりたいっ!!と願っていました。だけど小学校生活6年間、一度も一緒のクラスになる事もなく、接点もなく、あきらめていました(笑)

小学校の廊下ですれ違う時など、何度か「友達になろう!」と話しかけようと自分の中でめっちゃ考えたりしていたなぁ(*ノωノ)そんなワカが同じ部活でこれから3年間、部活をともにするんだ!!ととても嬉しくなりました。そこで速攻私はワカに話しかけて、とても気が合う親友になりました。このブログの一番初めの方でブラックコーヒーの話をしましたが、「願えば叶う」中学校の時の私も不思議だなぁと思った記憶があります。本当になってほしいと心から願っていたら神様がかなえてくれるんだと思います。

 

あともう一人、私の吹奏楽部で欠かせない親友が彩花です。彩花には本当にお世話になったなぁ。。。私と性格が真逆でほんわかしていて、マイペースで優しい親友です。私はどちらかと言うと言いたい事をハッキリ言うタイプだったので苦手と思ってた子は多かったんじゃないかなぁ。性格はホントきつかったと思います。

 

吹奏楽の同級生めんばーは本当に皆いい子たちばかりでしたね。私の担当はアルトサックスでしたが、パート内、先輩にも後輩にもすごく恵まれていたと思います。中学校は吹奏楽部一色といっても過言ではないほど部活命でした。心から笑って泣いて、感動してうれし泣きも人生で初めてでした。人ってうれし泣き本当にするんだと実感しました。

 

その一方で中学校生活もとても楽しかったです!

私のお調子ものが小学校の時よりもっと加速して、授業中もうるさすぎて担任の先生を泣かせた事もありました。とにかく騒ぐ!!そんなかんじでした(笑)そんな中、中学3年の冬の事件が起きました。高校へ願書を出しに行こうとした日の事です。靴箱から自分の靴を履こうとしたら中に20個ほど画鋲が上向きに入っていました。幸い怪我はしませんでしたが、とても悔しさと悲しさ、誰がこんな事を?と大きなショックを食らいました。私はプライドが高かったので誰にも相談しませんでした。なんとなく予想はついていました。男子たちです。そうです、私はこの時もまだ男子との距離感がつかめず、男子に対してツンツンしていました。女子の前ではお調子ものなのに、男子の前ですごくふてこい子っていましたよね、それ私ですwwww

 

その画鋲事件の次の日、また事件が起きました。上靴に履き替えようとしたら上靴の中に大量のからしが入っていました。洗っても取れないほどです。私は悲しみがイラつきに変わり、犯人であろう男子軍団のところへ行き、中学の間喋ったことない男子にいきなり靴を見せ「これ誰がやったん?」と言いに行きました。もちろん男子は、口をわりません。その時その男子たちが何かを紙に書いていた内容を見てしまいました。そこには私の似顔絵(とてもブスだった)と悪口と変なあだ名(あだ名で自分とわかった)が書かれていました。プライドが高かった私はその場で何も言えず、立ち去りました(笑)

 

その時私は思いました。私は男子に嫌われているんだと。

心の中では、男子と仲良くしたいと思っているのになんでなんだろう。とすごく悩みました。今思うと可愛げのない女だったと実感しますけどね(笑)

 

そんな感じでその様な「軽いいじめ」は卒業まで続きました。私は気にしていないふりをしてやり過ごしたのを覚えています。

 

ですがこの事件以外は28歳になった今でも戻りたいと心から思えるほどの楽しい毎日でした。本当に本当に人生で一番楽しかった時期だと思いますね。

 

 

 

【16歳~18歳 高校生の記憶】

高校は記憶に新しいですね。高校生活もメチャクチャ楽しかったなぁ!!

中学校のメンバーは小学校から一緒だから新鮮味はなかったけど、高校ってなると本当に新しい環境だったから、人間関係は完全に1からですもんね。

 

中学の時に悩んでいた「男子」問題なのですが、なんと高校になってこの悩みは完全に解消されたんです!!高1の時のクラスは、男女みんなが仲の良いクラスでした。文化祭や体育祭の時もみんな一致団結できる最高のクラスでした。男子との壁をどうやってとっぱらったのか覚えていないけど、なぜかめちゃくちゃ仲良くなってたなーw放課後男子に交じっておしゃべりしたりとかも、ざらにありました!たのしすぎた!!高校の文化祭の話にまた戻るけど、みんなでGreeenの「キセキ」を歌ったんですけど12年経った今でもどこかで流れていると高1の楽しかった日々を走馬灯の様に思い出すのよ。

なんか、中学とは違って「アオハル」って感じでしたね。

 

部活は女バレのマネージャーをしていました!マネージャーって人を支える側で、これもこれで色々と悩んだし、泣いたりしました。でも女バレに入った事で今の自分があると思う。高校で本当に自分の性格が変わったなぁと思う(いい方向に)中学校までに自分ってどこか支配的できつい自分だったけど、高校の時、今では親友の睦に「その性格、直した方がええで」と初めて友達から自分の性格の事を言われました。睦は実は小学校の時から一緒だったけどここまで話した事も接点もなかった友達でした。でも中学校の時、私の事が嫌いだったらしいです(笑)お調子ものだなぁ~と。睦から性格を指摘されて、私は本当に自分の性格を見直せました。睦、ほんとうにありがとう♡

 

高校2年、3年もそんなこんなで楽しい部活と高校生活をすごしました。

 

後ひとつ忘れてはいけないのが、人生で初めて恩師に出会えました。心から恩師と呼べる先生。井上先生!!!井上先生は卒業式の時手紙をくれました。そこには「教師人生15年。あなたが破天荒すぎてどんな生徒よりも脳にピシーーーっとあなたの記憶が張り付いています。あなたの事は一生忘れないでしょう。」とwww井上先生は本当に生徒の事を一番に考えてくれる先生です。高3の時だけ担任じゃなくなったけど、行きたい大学を担任じゃない井上先生に相談したら、その大学まで一緒についてきてくれて、大学の進路担当の人に私の事を推薦してくれたりしました。井上先生がいなかったらどうなっていたか。そう思うと感謝してもしきれないです。井上先生には卒業して2回だけ会えました。8年前の同窓会と2年前の睦の結婚式です。その睦の結婚式で「あなたの結婚式絶対に呼んでよ」と言ってくれました。まだ予定はないけどその日まで楽しみにしてたいと思います★

 

 

 

【19歳~20歳 短大生の記憶】

女子だけの短大へ入学しました。高校の時からやりたい事があまりまかったのでとりあえず将来仕事で困らないようにパソコンを専門的に学べる短期大学へ行きました。女子だけって事で本当にこの二年間はよく合コンへ行きまくっていました(笑)多分20回以上は行ったんではないかと・・・・・ですが一度も彼氏はできませんでした(笑)彼氏ができなくても、皆と話すのが毎日楽しくてあっという間に2年間が過ぎました。短大の記憶はやっぱりなんといっても「就活」です(´;ω;`)本当に心が病みました。30社ほど受けたと思います。ESでおちる所ももちろんあったし、最終面接まで行っては、落ちる。そんな日々の繰り返しでした。自分への自信も段々となくなっていっていました。その時の私は「どんな働き方をしたい」より、「とりあえず就職すること」が目標になってしまっていました。「就職」が目的となっていたんです。そして、特に行きたいと思っていない会社へ応募し、機械の様に面接をこなしていました。完全に自分自身の事を無視した就活をしていました。そして、行きたい会社とは程遠い会社から内定をもらったのですが、就活から解き放たれたかった私は、そこに就職しよう。と妥協しました。この決定は、今の最大の「悩み」になる事など知る由もありませんでした。

 

ですが就活を頑張ってよかったなぁと思うこともありました。それは卒業前に在校生の前で「就活について」スピーチをする人に私は代表として選ばれました。その時は、頑張ってきて評価されて心から嬉しいなと思いました。在校生にも私みたいにしんどい思いをする人がきっといてるから、その時の私なりの就活対策方法を全力でお伝えしました。

 

 

 

【20歳~24歳 地獄の社会人1年目~4年目】

私は地元の大阪にしかない鉄道会社に入社いたしました。そこで車掌の仕事をする事になりました。一見、格好良い感じに思いますが、はやりお金を稼ぐのは簡単な事ではありませんでした。

 

車掌の仕事は主に「扉の開閉」「社内の案内放送」「運航の管理」「旅客対応」などです。私が何がしんどかったかと言うと「クレーマーの対応」そして一番つらかったのが「睡眠時間がとても不規則」でした。出勤時間は正午~夜中0時までぶっ通しで、各駅に宿舎があるのですが、そこで3時間ほど睡眠をして、また明け方4時~正午までぶっ通しで働き続けるという繰り返しでした。私は入社して、すぐに辞めたいと思っていました。電車が人身事故や車両故障などで2分でも遅れるだけで怒鳴ってくるお客さんも少なくありません。常にクレーマーの対応をしていた記憶があります。私は人の役に立てる仕事に就きたいととても悩みました。「ありがとう」と言ってもらえる仕事に就きたいと。

 

毎日辞めたい辞めたいと思っていました。体重もストレスから+5キロいっきに太りました。十二指腸潰瘍も出来てしまいました。でも「石の上にも3年」と心に刻み、泣きながら出勤していました。そしてある事件がおこりました。ある日、お客様からクレームを言われ、それを上司に報告している時、突然目の前に霧がかかった様になり、上司と私の間に1枚のアクリル板のような仕切りがされた感覚に陥りました。上司の話もあまり聞き取りづらくまり、何より目に力を入れないと目が開きづらい感覚でした。そしてその瞬間、上司の顔色も変わりました。あまり記憶が鮮明ではありませんが、怯えているというか、怒っているというか。今まで見たことの無い上司の表情でした。その日から私の人生が悪転して行くのです。

人の話を聞く時に症状がとても強く出てしまうのですが「視線恐怖症」でした。最初は何かわからず、いろいろ調べていくとこの症状でした。

 

「視線恐怖」のなかでも私は自分の視線が誰かに不快感を与えていると思ってしまう「自己視線恐怖症」と自負しています。この「視線恐怖症」の主な症状としては、私が一番つらいのは、人の話を聞けない事です。人が話をしている時に、目をみて話してくると思うのですが、その目を合わす事がとてもしんどいのです。変に目を見ないといけないと感じてしまい相手に威圧感を与えてしまうのです。で、力をぐっと目に集中してしまうので眼精疲労がひどいです。ですが力を入れないと相手に不快感を与えてしまうと思ってしまうのです。目にはけがなくなり、まさに死んだ目の魚のようになります。多分皆さんからすると「何言ってるんだ」と感じると思います。

 

他の症状としては、電車で目の前に人がいるとどのに目を向けたらいいのかわからなくなる・自転車ですれ違う人を見ないようにすごく意識してしまう・コンビニの定員に対しても目を合わすと不快感を与えてしまうと思うので、極力目を合わせないようにする・私は症状が加速していっているので、通行人(他人)・職場・友人そして家族にまでこの症状が出てしまったのです。原因としては過度なストレスの自律神経の乱れとの事。私は3年半でこの鉄道会社を辞めることにしました。心理カウンセリングなども受けましたが、効果はありませんでした。

 

そんな中、ニートになり半年ほど経ち、視線恐怖症の改善が見られない状態のまま、転職活動をして、二社目の事務員の仕事を始める事になりました。

 

 

 

 

【24歳~27歳 2社目の会社へ】

2社目は金属部品を扱う会社の事務員の仕事でした。上司にも同僚に恵まれ、全体的にとてもいい環境でした。朝8時~17時定時で残業などもほとんどなく、自律神経が整ったのか、何もしていないのに4キロほどスッと痩せました。ストレスも全くなく、同い年の新卒で入っていたカワボンとも最高になかよくなり、毎日たのしい日々が続きました。でも視線恐怖症はどんどんとひどくなる一方でした。ある日仕事終わりにカワボンと飲みに行くことになりました。仕事の事で少し言い合いになってしまい、お互いを傷つけあってしまいました。その日以降突然、私はカワボンに対して視線恐怖症が出てしまいました。あんなに仲良くしていたのに何でだろう。とっても悩みました。自分を責めました。カワボンも、やはり今までの私じゃなくなったのがすぐわかったのか、距離を空けました。話はするもののどこかお互い距離がある。そんな感じの日々が1年ぐらい続きました。入社してすぐは本当にカワボンと毎日一緒に帰って、お互い会社から家が近かったので送り合いをし、どっちかの家についてしまったら、そのままもう一人の家まで送る。みたいなのを永遠にしていました(笑)きづけば夜中になっていた事もありました。それぐらい本当に仲良しでした。私は社会人になって、こんなに心から仲良くなれる子に出会えるんだと本当に感謝しました。

そんな関係が一気に壊れてしまい、本当に自分のこの治療法が分からない病気を憎みました。

そして私が入社して3年でカワボンは退職してしまいまいました。私も会社で楽しさを見いだせなくなってしまい、半年後に退職しました。カワボンとは今でもちょいちょい連絡はとっています。早くこの病気が治って前みたいに何も考えず話したいなぁ。と思います。

 

上司には本当によくしてもらい、そこは本当に恵まれていたなぁと感じております。

 

 

 

【27歳~28歳現在 3社目の会社へ】

現在は、化粧品メーカーの会社の事務員をしております。また1年ほどしか経っておりませんが、人間色んな人がいるなぁと日々考えさせられます。会社は入社しないと本当にわかりませんよね。私は働くうえで最も大切な事は何より「人間関係」だと思います。尊敬できる上司がいる事って本当に大切な事で自分も成長したい!!と思う会社ってとてもいい会社だと思いますね。

 視線恐怖症と闘いながら会社に通うって本当に大変な事です。いったん本気で改善するために時間とお金を使って治療しようかなとも考えています。また、なにかあったら報告させてください。

 

 

 

 

すご~~~~~く長くなりましたが、私の人生をざっとまとめたprofileでした。

 

ここまで読んでくださったあなた、本当にすごいです(笑)

ありがとうございます!!!!_(._.)_

 

これからどんなネタで書いていくか分かりませんが、頑張っていくのでよければ応援よろしくお願いします★

 

 

ではまら今度(@^^)/~~~

 

 

やーにゃん